水面に揺蕩う記憶6 -群青-

 

 それからというもの、その子どもは、名前はゼイラというらしいが、度々訪れるようになった。
 特定の時刻に外に出ているわけでもないのに、何故か私が川へと赴く度に、決まって彼は現れた。一度疑問に思って尋ねてみたが、
「ふふっなんとなくわかるんだ!」
 と返されて終わったので、それ以上は追求しなかった。

 今日も、いつものように川べりに2人で並んで座り、私は彼の話に耳を傾けた。
 感情表現豊かに、最近起こった出来事やその時感じたことなどを話す姿は、とても新鮮だった。それは、今まで私が考えたことも感じたこともないものばかりで。こんな風に彼は世界を認識しているのか……と考えるに至って、私は今まで他者がどう考え、どう感じているか、ということに意識を向けることが無かったことに気付いた。

 他者がどう考え、どう感じているか。

 それは鼓膜で音を拾うように、私には容易に聞きとることができた。意識を向ければ、もっと心の奥深くまで読み取ることも可能なのかもしれない。しかし私は、表面上の音の連なりと、そこに含まれる意図との差異に触れることに、もう疲れ果てていた。
 その点、彼の”声”は、どういう訳か私には聞こえない。それは、得体が知れない不安が大きいものの、”声”のことを気にせず、純粋に口から発せられた声を聴き取ることに専念できた。

「──ュウ……ねぇキリュウ君!聞いてる?」
 しまった。またぼうっとしていたようだ。
「あぁ……何だ?」
 すぐに考え事に浸ってしまうのは、私の悪い癖かもしれない。慌てて隣に目を向ける。
「もー!全然聞いてなかったでしょ!」
 そう言いながら頬を膨らませる様子を見て、ああ、子どもとは本来こんなものなのだろうかと思う。私自身は、散々子どもらしくないと言われてきたが、皆が求めているのはこういうことだったのだろうか。
「いや、おおよそ聞いていた」
「えー?本当かなぁ……」
 ゼイラが訝しげにこちらを見る。しばらく渋面を作っていたがそれも束の間で、すぐにいつもの表情に戻った。
「まあいいや!それでね、僕がこの間見つけたんだけど……」

 本当に表情がくるくる変わる。身振り手振りを交えて懸命に説明しようとする様子が、とても眩しく感じて思わず目を細める。それは、異なる世界に生きているもののように見えるほどに。内に内にと閉じこもってしまう私の性質とは相反するものなのかもしれない。そう考えると急に、隣に居る彼が、とても遠くに感じた。

 また暫く惚けていたのかもしれない。ふと気づくと、ゼイラが困ったような顔でこちらを見ていた。
「うーん……やっぱり上の空じゃない?キリュウ君は僕と話してても楽しくない?」
「楽しい……?」
 ”楽しい”とはどういうものだっただろうか。あまり耳に馴染みのない単語の、意味を理解するのに時間を要した。
「……興味深いこと?」
「それもそうかもしれないけど……えっと、なんていうかその、ワクワクして気持ちがほわほわってなる感じっていうか……」
 言いながら彼自身もよくわからなくなってきたのか、声が尻すぼみになっていった。
「あー!もう!口で説明するのは難しいよ!」
 そう言うが早いか、こちらに向き直り、私の右手をとると、両手で掴んでしっかりと握った。
「僕は!君とお話ししたり、こうやって隣に並んで座ってたりするとすっごく楽しくて!また明日もこんな風にお話しできたらいいなって思ってる!君は、僕と一緒にいるのは嫌……?」
 眉根を寄せ、最後の方は消え入るような声で呟く。大きな瞳が水気を帯び、紫色が揺らめいた。

「……私は、」

 一体何がしたいのだろうか?こんな風に悲しい顔をさせたかったわけではないのに。
 どうにも彼に会ってから、自分のことがよく分からなくなった。掴まれているほうの右手が、じりじりと焦げついていくかのように熱い。この気持ちは、なんと言うのだろうか。これまでに数多くの書物を読んできたと思っていたが、適切な言葉の一つも見つけられなかった。

 私は他者の感情が、どういう類のものに分類されるのかが、ある程度分かる。それは彼ら自身が、これは”悲しい”、これは”嬉しい”と、経験を元に自動的に分類をしているからだ。一方、私自身のことに対しては判断基準に乏しく、よく分からない。いざ言葉にしようとしてみても、形にならなかった。そもそも私は他者から受け取るばかりで、積極的に誰かに何かを伝えようと思ったことが無かったのかもしれない。でも今は。
「私は、君の泣いている姿を見たい訳じゃない」
 相変わらず思考はまとまらないが、そのまま口に出してみることにした。隣に視線を向ける余裕も無く、川の方を半ば睨みつけるように見つめながら続けて言葉を紡ぐ。
「いつものように、笑っている方が、いい」
 その言葉は、自分でも意外な程、すとんと胸に落ちた。ああ私は、彼に笑っていて欲しかったのか。

 そうそうと流れる水の音が聞こえる。

 耳に馴染んだその音が聞こえるほど、いやに静かなことを不審に思い、隣に視線を戻した。
 隣の彼は、元々大きな目をさらに大きくし、こちらを向いたまま固まっていた。いつ手を離されたのかわからないが、空いた両手が所在無く中空に留まっている。
「どうかしたのか?」
 私が声を掛けると、我に返った様子でゆっくりと腕を下ろし、そのまま俯いてしまう。ややあってから俯き加減のまま、ぎこちなく口を開いた。
「ぼっ……僕ね、本当はね、きっと迷惑なんだろうな~と思いながらいつも来てたんだけど……でもあんまり同じくらいの年の子に会ったことがなくて嬉しくって、ついついやめられなくて……だから君がそんな風に言ってくれるとは思わなかったんだよ!!」
 最後の方は半ば自棄になったのか、ひと息で言い切ると、こちらを真っ直ぐに見返した。
 その言葉を聞いて、今度はこちらが固まる番だった。

 まさかそんな風に思っているとは思いもよらなかった。私にとっても、同じ年頃の子どもとこのように話すことはほとんどなく、新鮮であると同時に戸惑いも大きかった。それに加えて、相手がどのように感じているのか全く読めないというのは、想像以上に不安で落ち着かない。でもそれは、彼にとっても、と言うより他の大多数の者にとっても同じなのかということに、ようやく気付く。
 そう認識したものの、何からどう言ったものか私が考えあぐねている隙に、ゼイラは思っていたことを吐き出してすっきりしたのか、晴れ晴れとした表情でこう言った。

「じゃあ今日から僕たち友達だね!」