(後編)
一体これはどういうことなのだろう……。
もはや俺の思考能力の限界を超えた状況に陥っていた。
先程、城の最上階で出会った女性に連れられて、俺は城の外へと来ていた。城門があった方とは反対側の一画に、様々な種類の植物が植えられた小さな庭園があった。魔界は草一つ生えない不毛の大地だと思っていたので、これにはかなり驚いた。思わず立ち止まり、しげしげと近くにあった植物を眺めた。小さな深緑色の葉っぱのあいだから、ちらちらと白い小花が見え隠れしている。植物に詳しくないので名前は分からないが、どこにでも生えていそうなそれに、魔界といえども意外と我々の住む世界と変わらないのだろうかとぼんやり思う。
足を止めたまま動かない俺を不審に思ったのか、前を歩く女性が振り返った。
「何か気になることでもありましたか?」
常に微笑みを絶やさない彼女──名前が分からないので仮に魔王城の隣人さん(以下「隣人さん」と呼ぶ)──が、こちらを気遣うような視線を投げかけてくる。これは無用な心配をさせてしまったかもしれない。慌てて女性の方へと駆け寄った。
「いえ、なんだか見覚えのあるような植物を見掛けたので、魔界も意外と人の世界と変わらないのかと思って、少し驚きました」
俺がそう言うと、隣人さんは先程まで俺が立っていた辺りの植物を見つめて言った。
「確かにあの植物は、人の世界にも近いものがあると聞きます。ただ……やはりこの地では、植物はとても育ちにくいんです」
隣人さんの寂しげな横顔を見て、俺の胸に何とも言えない寂寥感のようなものが湧き上がってくる。
ここは、面白いことの一つでも言って場を和ませるべきなのだろうが、あいにく俺にはそのようなスキルは備わっていなかった。少し考えて、思ったことを言葉に表す。
「俺は植物には詳しくないんですが、そのような環境で、これだけの草花が育っているのは、やはりあなたの力が大きいのでは?」
「そうだと良いのですが……。でも、ありがとうございます」
隣人さんはそう言ってにっこりと微笑んだ。
しばらく進むと少し開けたところに出た。休憩所のような屋根の付いた一角があり、丸いテーブルと椅 子が2脚置かれている。
隣人さんに勧められるまま椅子に腰を下ろすと、
「それでは私はお茶を入れてきますので、しばらくここでお待ちくださいね」
と言って、彼女は来た道とはまた別の方向へと姿を消した。
隣人さんの足音が遠ざかり、辺りに静けさが満ちてくる。一人になってあらためて周囲を見回すと、本当に様々な種類の植物があるようだった。青い花を咲かせたものや、赤い実を付けたもの、先程見かけた白い小さな花の植物もあった。これらを全て手入れするのは大変なんだろうなあと、眺めながらしみじみ思う。
風は穏やかで、遠くで鳥か何かの声が微かに聞こえる。時折、分厚い雲の隙間から陽射しが差し込み、辺りを照らした。風に揺られる葉の緑が、鮮やかな色を見せる。あまりにも平穏そのものな光景に、ともすればここが魔界であることを忘れそうになる。ふと、村に残してきた妹のことが気にかかった。両親を亡くしてから2人で暮らしてきたが、あまり兄らしいことはしてやれた試しがない。病気がちのため、あまり外に出られないあの子に、この庭を見せたら喜ぶだろうか。
「あいつにも見せられたらいいのに」
つい口に出してしまったものの、こんなところまで連れてくることなど到底無理な話なのだが。
「どなたかお連れしたい方がいらっしゃいましたか?」
「おわっ! っと、すみません、驚いてしまって」
「いいえ、こちらこそ突然話しかけてごめんなさい」
いつの間にやら隣人さんがティーセットを持って後ろに立っていた。思っていたよりも随分と時間が経過していたらしい。俺の驚き様に、隣人さんは恐縮したように詫びると、銀のお盆からティーセットを下ろす。そして、慣れた手つきでカップにお茶を注いだ。いや、正確に言えば俺の知っているお茶と同じようなものなのかは分からないのだが、琥珀色の液体からは、湯気とともに香ばしいような、良い香りが漂っている。
「お口に合うかどうかは分かりませんが、よろしければどうぞ」
「ありがとうございます」
勧められるままに口を付けると、ほのかに甘みのある、芳しい香りが口の中に広がった。
ほう、と息を吐いて、自分の体が思いのほか緊張していた事実に気付く。温かな液体によって内側から温められた体が、次第に強張りをといていくのを感じながら、先程からの疑問を口に出した。
「そういえば、あなたはここにひとりで住んでいるんですか?……あっいや、詮索するつもりは無いんですが、こんなに広いと掃除とか手入れとか大変そうだなと思って」
何気なく言ってしまってから、これは初対面の女性に対して失礼な質問だったかもしれないと、慌てて問いの理由を付け加えた。しまった。体とともに口まで緩んでしまったようだ。
「ふふっ構いませんよ。勿論、私ひとりで住んでいるわけではありません。ただ所用があって、今は多くのものが出払っているのです」
俺の慌てっぷりが可笑しかったのか、隣人さんは口元に手を当ててクスクスと笑ったあと、質問に答えてくれた。特に気分を害した様子がなさそうで、俺は密かに胸を撫で下ろした。
「そうでしたか……すみません、そんなところに突然お邪魔してしまって」
今更ながら突然押し掛けた事実を思い出した。というか魔王を倒しにきたはずの俺は、どうして今、まったりとお茶をしているんだ……?
「いえいえ、私もちょうどお茶をしようと思っていたところなんです。ひとりで飲んでもつまらないですし、ご一緒してくださると私も嬉しいです」
そう言って春の日差しのような笑顔を向けられると、すぐにお暇するのも悪い気がして、俺は先程思い当たった事実を頭の隅に追いやった。魔王退治も大事だが、こんなに親切にしてくれる方のもてなしを、素直に受け取るのもまた大切なことなのではないだろうか。
「お菓子もありますので、こちらもよろしければ召し上がってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
隣人さんが、器に盛られた焼菓子を差し出してくる。きつね色に焼き上げられたそれを1つ摘み、齧る。思ったよりも軽い食感で、口の中でほろほろと崩れた。
「おいしい……」
思わず言葉が漏れた。いや、おいしいなんてありきたりな一言で言い表わせるものじゃない。なんだこれは。これが高級なお菓子というものなのだろうか。今までに食べたどのお菓子よりもおいしい気がする。というかむしろ今まで俺が食べてきたものは本当にお菓子だったのか……?
「お口にあって何よりです」
俺が未だ味わったことのないおいしさに衝撃を受け、感動のあまり涙を流しそうになる衝動を必死に押し留めている向かい側で、隣人さんはとても嬉しそうに笑った。ような気がした。まずい、ちょっと視界が滲んできた……。
しかし今の俺には、やるべき重大な使命がある。視界不良の中、ありったけの気力を振り絞って声を出した。
「あの……」
「はい?」
「これ、少し持ち帰ってもいいですか……っ?!」
目の前の隣人さんを真っ直ぐに見据えて言い放った。勢いよく顔を上げた拍子に少し涙が零れたかもしれないが、構わずに続ける。
「あまりにもおいしかったので、故郷にいる妹にも食べさせてやりたくて。失礼なことは承知していますが……」
隣人さんは、俺の勢いに圧倒されたかのような顔で固まっていたが、少しの間を置いて破顔した。
「そんなに気に入っていただけて光栄です。持ち帰り用に別に包みますね」
「いや、そんなわざわざ悪いです……。えっ! というかまだあるんですか!?」
この世界にはこんなにおいしいものが無限にあるのか……。魔界はなんと恐ろしい場所なのだろう。
「たくさんあるので、そちらにある分はどうぞ召し上がってください」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべながらそう言われると、俺は素直に頷くことしかできなかった。背筋を正して目の前の器に向き直る。
「では、遠慮なくいただきます」
隣人さんに勧められるまま、お菓子と、お茶のおかわりまでいただいているうちに、いつの間にか時間が過ぎていたようだった。頭上を覆う分厚い雲が、一段暗くなったように見える。流石にそろそろ帰るべきかと思いはじめた頃、こちらに向かってくる微かな足音に気付いた。音のする方向を見やると、最初に俺たちが庭園に来た方向から、誰かがこちらを目指して歩いて来る。同じく足音に気付いた隣人さんは、静かに立ち上がると、
「すみません、少し席を外しますね」
と言い残し、その人物の方へと向かった。
俺は少し迷ったが、このまま優雅に一人で座っているのも居心地が悪かったので、遅れて隣人さんの方へと向かった。
部外者の俺があまり会話を聞いてしまっても気まずいかと思い、わざとゆっくり向かったところ、俺が追いつく頃には隣人さんとその人物との話は終わったようだった。近くで見ると隣人さんより少し背が高い女性のようだ。フードを被り、ゆったりとした裾の長いローブをまとっているので遠目には分からなかった。
「それでは、私は戻ります」
そう言って、ローブの女性は踵を返すと、来た道を戻っていった。一瞬だけ俺と目が合った際に睨まれたような気もするが、気のせいだと思いたい。
「長い時間引き止めてしまってすみませんでした」
振り返った隣人さんが言う。
「俺の方こそ、つい長居をしてしまって申し訳ありません。おいしいお茶とお菓子をありがとうございました。お庭も見れて良かったです」
そう言うと、隣人さんはとても嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。あの、少しだけこのままお待ちいただけますか?」
「はい」
「すみません。すぐ戻りますので、椅子に掛けてお待ちくださいね」
隣人さんはそう言い置くと、小走りで姿を消した。
俺は最初にいたところに戻り、椅子に腰を掛けて再び庭を眺めていた。鳥か何かの声はもう聞こえず、代わりに風が少し強くなった気がした。庭の植物たちが落とす影を見つめながら今日の出来事を振り返り、俺は一体何をしにここまで来たんだろうかと少し落ち込み始めた頃、小ぶりの包みを抱えた隣人さんが戻ってきた。余程急いで来たのか、息を切らせている。
「これを、宜しければお持ち帰りください。先程のお菓子も包んで入れてあります」
「えっこんなにたくさん。悪いです」
「せっかく来てくださったのですし、ぜひ」
「ではお言葉に甘えて。ありがとうございます」
受け取った包みは、かろうじて両手に収まるほどの大きさで、意外としっかりとした重みがあった。
「あまり日持ちのしないものも入っていますので、妹さんとご一緒に召し上がるのであれば、早めにおうちに戻られる方が良いかもしれません」
「! それは……急いで家に持ち帰った方が良さそうですね」
「妹さんにもよろしくお伝えください」
「もちろんです。こんなによくしていただいて、何とお礼を言ったらいいのか」
「どうぞお気になさらないでください」
隣人さんはそう言って柔らかく微笑んだ。
「門のところまでお送りしましょう」
隣人さんとともに城門へと辿り着いた頃には、更に一段辺りが暗くなっていた。
因みに今回は、俺が入ってきた小さい扉ではなく、その隣の大きい方の扉から出てきた。と言うより、俺たちが近づくと大きい方の扉が自動的に開いたのだ。仕組みがよく分からないが、隣人さんが手を痛める心配が無さそうで何よりだ。
「帰り道は分かりますか?」
「おそらくは」
一応、方向感覚には自信がある。
「どうぞお気をつけて」
「はい、今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ、楽しいひと時をありがとうございました」
こうして俺は、隣人さんに見送られながら、魔王城のお隣さんの家を後にしたのだった。
(了)