水面に揺蕩う記憶5 -群青-

 

 ”声”が聞こえない。

 それはこれまで生きてきたなかでは、あり得ないことだった。少なくとも生命活動を行っていて、言葉を発するようなものについては。
(ではこの、目の前に居るものは、一体何だ?)
 古の禁呪には、死者を操る術があったと書物で読んだことがある。そういった類のものだろうか。
 それとも異界の住人か何かなのだろうか。世界はここだけではないし、別の世界のものには、私の力が及ばないこともあるかもしれない。
 あれこれと考えたところで答えが出るはずもなく、私は覚悟を決めて直接問いかけることにした。
「お前は………一体何者だ?」
 その言葉を聞いた目の前の相手は、少し目を見開き、先程より硬い表情でこちらを見つめ返した。

「僕は……」

 一言発したところで、口を閉ざしてしまう。
 ”声”が聞こえない以上、私には言葉によってしか、相手を推し量る術がない。
 少しのもどかしさを感じながら、固唾を呑んで続く言葉を待った。

「あの……ふぁっ……くしゅん!」

 しかし、次に口を開いた相手から飛びだしてきたものは、言葉ではなかった。

「あれ?なんだろう急に……っくしゅん」

 突然のことに、何が起こったのかしばらく理解ができなかった。
(そういえば川に入ったんだったな……)
 ようやくそのことに思い当たる。
 既に顔や手は乾きかけているが、髪や衣服は水分を含んだまま、べったりと貼り付いている。手足の先が冷え切っていて、ほとんど感覚がないことに気づいた。
(まずは、これをどうにかする方が先か……)
 右の掌に、髪や衣に含まれた水分が集まる様を思い描く。水は、私の望みを聞き入れ、即座に動いた。半ば蒸発しながら抜けたため、掌に集まった水分は、ごく僅かであった。球状に集まったそれを川へと放り、目の前で座り込んでしまった相手を見やる。
 恐る恐るというふうに目を開き、こちらを見上げて不思議そうに目を瞬かせた。

「えっと……?」

 いかにも何が起こったのかわからないと、疑問符を浮かべている様子は、本当にただの子どものように見えた。声が聞こえないからといって、少し大袈裟に考えすぎていたかと思い直す。途端に、過剰反応してしまった自分がひどく狭量に思えた。
「いきなりすまない。寒そうだったので、先程服に染み込んだ水分を抜いた。先に断るべきだったな」
 そう言いながら、手を差し伸べると、相手は何が嬉しいのかわからないが、ぱっと顔を輝かせると、私の手を握り返した。そして、こちらが引っ張るまでもなく勢いよく立ち上がると、
「すっ……すっ……すごい!!」
と、驚いたような声をあげた。
「……何?」
 正直なところ、何が凄いのか全くわからない。
 どう反応したらよいものかわからず、目をしばたたかせる。
「だって、ほら!あんなにずぶ濡れだったのに、今はもうお日様に干したあとみたいに乾いているもの!」
「そうだな……」
 それは私がそうしたからだが。一体何が言いたいのだろう?常であれば発する言葉がなんであれ、言いたいことはほぼ読み取ることができるので、こんなふうに相手の意図が全く読めないことは初めてだった。
 私が困惑しているうちに、相手はひとしきり感動したあと、いつの間にか落ち着いたようだった。

「えっと!あらためて助けてくれてありがとう!僕はゼイラって言います。もしよければ君のお名前を聞かせて欲しいなっ」